World history academy - Ballon d'Or 世界史塾バロンドール

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スタディサプリ講師
村山秀太郎が、
西荻窪で
超絶直接指導!!

対象
高校生・浪人生・大学生・社会人

村山秀太郎

講義情報

1/26(日)ZOOM特訓

2025.1.26(日)1日特訓ZOOM世界史!!

早慶大レベルのマスター世界史入試直前チェック

8:00開始〜12:00→休憩&課題→15:00再開〜21:00休憩→22:45年号テスト23:15終了

費用11000円(銀行振込)

申込は下記フォームからしてください

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世界史資料集&各自のインプット教材を用意願います

↓が予習課題です,回答して臨んでください!

【中東近現代史&パレスチナ史完全版】

空欄を埋めよ(同じ用語が繰り返し入ることあり)

A.

パレスチナ(現在イスラエルが占領中)の先住民は(     )人。神(      )から「乳と蜜の流れる沃野」を約束されメソポタミアの都市国家の(     )から(     )川沿いに移動した族長アブラハムの一族は、それら先住民から「川向こうから“渡って”来た人々=(      )人」と呼ばれた。
 前13世紀に(     )は彼らを「(      )」させた後に(     )山で神から(     )を授かり(   )遵守を条件に契約関係に入る。荒野を放浪した後、後継者ヨシュアに率いられ(     )川を東から西に渡河し、世界最古の農耕遺跡の一つ(    )攻略を皮切りに(     )大征服に着手し、今からちょうど3000年前に(     )を初代の王として(     )王国を建設。二代目の王(     )はヘブロンから(     )に遷都した。(    )地区を建設した(     )の一派【エヴァンズが発掘した(     )宮殿の(    )文明の担い手と同系統とされる】(     )人(フィリスティア人、“パレスチナ”の語源となる)の巨人ゴリアテを石投げ機で打ち倒したのが彼だ。(     )の町にヤハウェの神殿を建立したのが子の(     )だ。が、統治の後半には神に依り頼まなくなり異教の妻を1000人持ってその崇拝から離れ、結果ヘブライ王国は北の(      )王国【都(    )】と南の(     )王国に分裂。北の王国は前722年(     )王国の(     )世に、(     )王国は前(    )年に(    )人の国(      )王国の(     )世により滅亡する。この時のヘブライ人(ユダヤ人)強制連行を「(      )」という。この時期に(     )が登場し(     )(救いのために神に油を注がれた者)の出現を予告し(     )教が熟成した。その教典がヘブライ語と(    )語で記された『(     )』であり選民思想を特色とする。彼らを、捕囚から“解放”したのが、(     )人の(     )朝の(    )世だ。同朝を(     )大王が征服、さらには(     )朝シリアによる支配により(     )思想の影響が深化すると、前2世紀にヘブライ人(ユダヤ人)の(      )家が(     )朝をたて抵抗した。 

その後、共和政ローマの第1回三頭政治の将軍(      )により前63年(      )朝は征服され、イェルサレムも前(   )年に成立したローマ帝国の属州ユダヤとなる。
 ユダヤ人は(   )をキリストと見なさず、ローマ帝国のユダヤ総督(     )に訴え磔刑にした。そのユダヤ人も第1ユダヤ戦争の70年にはローマのティトゥス将軍によりイェルサレムは壊滅し、前6世紀に再建された神殿の西の壁=(     )のみが残された。生き残ったユダヤ人は死海の畔の(    )の要塞に立て籠ったが、前73年結局ローマ軍に包囲され自刃しはてた。
 ローマ五賢帝の(     )の時バルコクバが再び抵抗を企てたが(第2ユダヤ戦争)、135年に鎮圧されユダヤ人は離散(      )した。この時からイスラエルはパレスチナとなりイェルサレムもローマの神の名前に変えられた。「離散」は(    )年のイスラエル建国まで続くことになる。
 以後パレスチナは、
ローマ帝国→東ローマ(    )帝国→(    )時代(636年イスラームのパレスチナ支配完成)→(    )朝→(     )朝→シーア派の(     )朝→スンナ派の(     )朝→(     )王国(by第1回十字軍)→アイユーブ朝→(     )朝→(     )帝国(現在のイェルサレムの城壁はスレイマン1世の時代のもの)の支配を経て20世紀を迎えることになる。

B.

「カノッサの屈辱」の翌年の(    )年、(     )修道院出身の教皇(     )世はユダヤ人の公職追放令を布告する。英王(     )世は十字軍遠征の資金をユダヤ人に捻出させ返済したくないのでユダヤ人を追放した。教皇(     )世は1215年の(     )公会議でユダヤ人の服装を規定し官職就任を禁止した。

離散したユダヤ人が向かった方向の一つが南フランスからスペイン南岸で彼らをセファルディと呼ぶ。それは7世紀の(     )朝によるイスラームの大征服とともに行われた移住による。セファルディが“スペイン”を表す語になったとも言われる。スペインではキリスト教に改宗したユダヤ人をコンベルソと呼んだ【イスラーム教徒支配下スペインのキリスト教徒がモサラべ、カトリックに改宗したイスラーム教徒がモリスコ、イスラーム様式とキリスト教様式が融合したスペインの建築様式が(     )様式】がマラーノ(汚らわしい人、豚)と蔑称でも呼ばれた。一方ドイツ系ユダヤ人をアシュケナージといい彼らに独特のヘブライ語がイディシュ語である。1264年にポーランドはユダヤ人の完全自治を許す。だから、1386年~1572年の(     )朝の都(     )近郊に、後にナチスドイツが建てたアウシュヴィッツ強制収容所がある。1347~1351年の黒死病つまり(    )の流行は、ジェノヴァ人と交易していたユダヤ人が、黒海地方のジェノヴァ人の植民市カッファで(    )軍と戦った際に感染したということでスケープゴートにされヨーロッパ各地で虐殺された。1492年の(     )完成時に(     )半島を追放されると、1500年頃からドイツ・ポーランドで居住地域(      )に入れられる。17世紀イギリス共和政の指導者(      )はユダヤ人の移住を許可、「啓蒙の18世紀」モーゼス=メンデルスゾーン(同名の音楽家の親族)がユダヤ解放思想を広め、オーストリアの啓蒙専制君主(      )世は(     )を発布しユダヤ人を解放、1776年(     )合衆国はユダヤ解放を決め、1791年の革命中の(    )国民議会はユダヤ人を同権化する。ロシアで1881年に皇帝(     )世が暗殺されユダヤ人虐殺(      )が頻発した頃、1894年にフランスでユダヤ人将校の冤罪事件(     )事件が起きると、スイスのバーゼルで(      )を中心に第1回シオニスト会議が開かれ(      )運動(シオンに帰ろう)が始まった。シオンとはイェルサレムにある丘でキリストが最後の晩餐を催した場所やダビデ王の棺がある一角だ。1904年の(    )戦争の日本の戦費の多くを調達したのが在米ユダヤ人財閥シフだった。

C.

第一次世界大戦中、オスマン帝国との戦いを優位に進めたいイギリスはアラブ人の首長にトルコ人への反抗と引き換えに、戦後のアラブ人のパレスチナ支配を約束する。1915年の(      )だ。英国は考古学者の“アラビアの(     )”がアラブ人を軍事訓練した。さらに(     )年には、三国協商のフランス・ロシアとはトルコ領東アラブの分割を密約する(      )を結ぶ。さらには1917年、ユダヤ財閥(      )家の資金援助を引き出すために(      )でユダヤ人にパレスチナの管理を約束する。この年、(     )が第一次世界大戦に参戦した。これがイギリスの三枚舌外交だ。

結局戦後、(    ・     ・    )はイギリス、(    ・    )がフランスによる国際連盟委任統治領となった。ロシアは革命で消滅したので英仏2国による山分けとなった。

19~20世前半のロシアにおける(      )というユダヤ人虐殺、1940年代のナチス=ドイツによる(     )から逃れたユダヤ人が大量にパレスチナに移住した。

1945年3月、アラブ諸国民の主権擁護と相互協力の促進を目的に7カ国で(      )が結成され、後に数カ国が加盟した。

パレスチナにおけるイギリスの委任統治の期限が切れる1948年の前年の国際連合(       )でイェルサレムは国際管理となった。この決議案は少数派のユダヤ人に多数派のアラブ人よりも多くの土地を割り当てるものであったが、これは同時期初めて選挙でアメリカ大統領になった(       )が選挙戦で国内のユダヤ票を固めるためのキャンペーンであり、アメリカが小国に圧力をかけ実現したものであった。建国宣言のわずか11分後に彼はイスラエルを承認する。パレスチナにおけるユダヤ人の自治の全面承認。日本に原爆を投下した彼は「現代のキュロス」なのだ。

1948年にイスラエル(ギリギリまで名称はシオンだった)の建国が宣言されると同日、それを認めない周辺アラブ諸国との(      )が勃発した。粗末な兵器だったイスラエルが“頭脳”で領土を拡大した。ちなみにパレスチナ人とは概してアラブ人でイスラーム教徒である。西エルサレムを(      ) が、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を(      )が、ガザ地区を(      )が占領し、パレスチナ人に割り当てられた土地は全て他の国家が管理することになったことが大量の(     )発生の原因である。その多くが流入した地域が、件の(     )なのだ!

(     )年の第2次中東戦争ではイスラエルは英仏と共にエジプトと戦った。この戦争は直接のパレスチナ問題が原因ではなく、(     )をめぐるエジプトとイギリスの争いにフランスとイスラエルが便乗して、エジプト対イギリス、フランス、イスラエルという構図で戦われた戦争だ。結果としてイギリスは同運河を失う。フランスは、エジプトの(    )大統領が、北アフリカの(     )の組織(       )の独立運動を支援していたことに憤りを持っていた。アメリカはイギリスを全面的にサポートしなかった。ときの米大統領(     )は第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦の連合国軍総大将で国民的英雄。ユダヤ票に頼らずに大統領になった人物なのだ。だからアメリカのユダヤ系は、この反省から米国の議会内に強力なユダヤ・ロビーのネットワークをつくることなった。

19(  )年、(      )=(OPEC)が結成された。19(  )年に(      )=(PLO)が結成され、さらには19(  )年にエジプトの(    )大統領が(     )湾チラン海峡を封鎖したので、紅海への出口をふさがれたイスラエルが先制攻撃をかけ第3次中東戦争(6日戦争)になる。イスラエルは6日間で(     )をシリアから、(     ・      )をエジプトから、東イェルサレムを(       )をヨルダンから占領した。この戦争の総大将が(     )だ。

OPECは第3次中東戦争では反イスラエルには結集しなかった。1968年に(      )=(OAPEC)が結成された。1972年の(     )=オリンピックではイスラエルの選手がパレスチナ=ゲリラに選手村で殺害される事件が起きた。1969年、(      )がPLOの議長になる。

(    )年、イスラエルの最大の祭りの日【ヨムキップル=贖罪の祭り、その50年目の2023・10・7に(     )がイスラエル人1200人を音楽フェスティバルで殺害した】にアラブ諸国が奇襲攻撃をかけたのが第4次中東戦争。初戦イスラエルが負けたが(    )将軍が活躍し、結果、領土の変化なかった。この時も国連決議338号が出され「不法占領」となったが、以後一切おとがめなしだ。OAPECが(     )をとり(      )となる。この1973年を境に世界経済は下降線にはいりアメリカを筆頭に経済は、インフレと不況が同時進行する(       )にはいる。経済不平等研究の第一人者の経済学者ピケティによれば世界に貧富の差が拡大したのは1970年代以降である。

その後イスラエルは1978年の米大統領(    )主導の(       )合意で(      )のみ、イスラエルの(     )政権は返還した。だがエジプト大統領(     )は暗殺された。1980年の国連決議478号では、どこの国もイェルサレムに大使館を置いてはならない、つまり国際管理地域であることが確認された。だから大使館はテルアビブに置かれている。【2018年に米(     )大統領が西エルサレムに移転した】ということは、西イェルサレム(1948年占領)もヨルダン川西岸地区の東イェルサレム(1967年占領)もイスラエルが占領しているが、これは「不法占領」であるという決議だ。

イスラエルがゴラン高原をシリアの返還することはまずあり得ない。イスラエルが同高原を占領しているからこそ、万年行きを戴くヘルモン山の雪解け水がガリラヤ湖に流れ込んでいるが、もしシリア領になりヨルダン領に流したら、イエスが奇跡で嵐を鎮めたガリラヤ湖もイエス受洗のヨルダン川もイスラエル屈指の観光地“水面を歩ける”海面下マイナス430mの死海も水が干上がってしまうのだ。ちなみにシリアがゴラン高原を捕られたのがハーフィズ=(     )前大統領の国防相兼空軍司令官時代である。

また現在、シーア派の盟主(    )=イスラーム共和国の革命防衛隊の影響はシーア派の傍流アラウィー派の(     )大統領の隣国シリアに及んでおり、南レバノンのこれまたイランが支援するシーア派の軍事組織(     )とともにイスラエルにとって脅威となっているのでイスラエルがゴラン高原から南レバノンの境にかけての防衛には万全を期すのである。イランのアフマディネジャド大統領(位2005~2013)は「イスラエルは世界地図から塗り消すべし」と言ってはばからない政治家だった。私は2003年にレバノンの首都(     )でレンタカーを借り国連のPKOが展開するイスラエル国境まで走ったが、シドンそしてティルスを過ぎ南レバノンのヒズボラ支配地域に入ると道の両側にイランの建国者(    )師と現(     )師の肖像画が点在していた。

ヒズボラは、1982年にイスラエルの(    )侵攻の際に創立された。ヨルダン政府がベドゥインを使いPLOを攻撃したので、PLOは本部をヨルダン川西岸から(     )に移したからである。パレスチナ人は、第一次中東戦争でガザを(     )に、ヨルダン川西岸地区(      )に奪われたわけだからPLOの敵は決してイスラエルだけではない。現在PLOの本部はチュニスにある。

レバノン侵攻の際、パレスチナ難民キャンプではイスラエルの(      )の指揮のもとパレスチナ人が虐殺された。レバノンはフランスの委任統治領だったが1943年に独立、(     )教ドルーズ派(イスマーイール派=7イマーム派の流れ)とキリスト教マロン派【(   )論の流れ】が混在する統治体制だった。議席配分がキリスト教徒に優勢である状況が、イスラーム教徒が人口ではるかに凌駕しても“改善”されないことから1975年にレバノン内戦(~1990)となり、そこにイスラーム教徒の宗派争いとPLO、後にイランが支援するヒズボラも加わり泥沼状態なのが、旧約聖書『ソロモンの歌』で「白く純潔なもの」の象徴として歌われた20世紀のレバノンの現状なのである。

D.

1987年からイスラエルの占領地ヨルダン川西岸でパレスチナ人の蜂起(       )(拭うという意味、実際は投石)が始まった。1987年に、エジプトで1928年に組織されたスンナ派の原理主義組織(      )のパレスチナ支部を母体として設立された(     )の活動も始まり病院や学校をつくりはじめ、PLOの影響力を排除した民衆レベルの活動を展開する。1988年にはアルジェでPLOがパレスチナ国家樹立宣言をおこないイスラエルと共存する独立国家を構想した。

イスラエルとパレスチナの対立は、米ソ冷戦構造において一種の代理戦争でもあった。が、1989年の冷戦が終結すると1991年に(      )市で中東和平会議が開かれた。イベリア半島は、1492年レコンキスタ運動完成時にイスラーム教徒(1991年ならパレスチナ人)とユダヤ教徒(1991年ならイスラエル人)が“仲良く”追放された“思い出”の地なのだ。

冷戦後の中東和平が緒についたかに見えたのは、1993年に(     )が仲介に乗り出し(     )がホワイトハウスの庭で発表された時だ。内容は、イスラエルが(       )とヨルダン川西岸の町(      )におけるパレスチナ人の暫定自治を承認すること。(     )米大統領、PLO(      )議長、イスラエル首相(      )が発表した。二人がノーベル平和賞を受賞。だが、ヨルダン川西岸地区全体からの撤退が1995年の熱狂的なユダヤ主義者の若者によるイスラエル首相暗殺の原因となってしまう。ユダヤ人がユダヤ人を殺すという前代未聞の出来事だった。ユダヤ人の歴史は苦難そのものだ。
 392年にキリスト教が(      )帝によりローマ帝国の国教になるとユダヤの会堂(      )は閉鎖され、ヨーロッパでは十字軍のターゲットとなり、レコンキスタ運動(718年~1492年)ではスペインを追われ、(       )の『ベニスの商人』では悪徳商人といえばユダヤ人とされた。同胞の命の大切さを誰よりも自覚しているユダヤ人が自らの首相を殺した。それほど神(     )が族長アブラハムに与えると言明した「約束の地」(     )(現パレスチナ)は貴いのである。
 ただラビン暗殺後、ペレス政権後に交代した(ラビンの政党の労働党よりも神の約束に固執する政党)(     )党の(      )首相もまたパレスチナ人の自治区拡大路線を継承した。次のバラク首相は「我々がパレスチナ人でもインティファーダに走るだろう」と意味深な発言で知られる。
 しかし2000年、第2次(      )が起きてしまう。 選挙キャンペーン目的で野党の党首(     )がイスラームの建造物(       )がある神殿の丘(ハラム=アッシャリーフ)を歩いたことが、そこで日々礼拝をおこなうパレスチナ人を刺激し騒動となったのだ。(     )は吹っ飛び、パレスチナ問題は泥沼化する。原因はパレスチナ人が自治国家を形成しても東イェルサレムをその首都にはさせないというイスラエル側の一貫した態度にある。
 2002年にアメリカの(     )政権が中東和平ロードマップを発表し、パレスチナはテロの停止、イスラエルにはパレスチナ国家の承認を求めた。そのイスラエルは2005年(     )からの撤退を開始する。これはガザ地区を占領した状態でイスラエル国を存続させると、ユダヤ人口よりパレスチナ人口のほうが多いイスラエル国になってしまうからである。2006~07年からガザ地区を過激な(     )が支配を開始、2006年のパレスチナ総選挙後に連立内閣を組んだPLOの穏健派(     )議長率いる(     )との共闘は崩壊した。ヨルダン川西岸地区を支配するのが穏健派ファタハ、ガザ地区は西側国際社会から「テロ団体」と認定されているハマス、という“棲み分け”ができつつある。

E.

メソポタミア史(バビロン支配)つまりイラク史の流れは以下のとおりだった。世界最古の農耕の遺跡(     )→シュメール人→(      )王国→バビロン第1王朝(古バビロニア)→ヒッタイト→(      )→アッシリア→新バビロニア→アケメネス朝ペルシア→アレクサンドロス大王→セレウコス朝シリア→(     )王国→ササン朝ペルシア。イスラーム以降は、正統カリフ時代のアラブ人→ウマイヤ朝→アッバース朝→イラン系(     )朝→トルコ系セルジューク朝→アッバース朝復活→チンギスハンの孫の(    )建国のモンゴル系イル=ハン国→(      )帝国→オスマン帝国→イギリスによる委任統治→イラク王国(1932)。

 第一次世界大戦後、英委任統治下のイラク王国(1921)の国王はフサイン=マクマホン協定のフサインの(      家)の次男ファイサルである。預言者ムハンマド直系の子孫フサインは、第一次世界大戦中にオスマン帝国の衰微に乗じ、1916年にアラビア半島紅海岸に(      )王国を建国した。が、戦後サイクス=ピコ協定の取り決めにそうかたちで英仏が東アラブ地域(エジプト以東のアラブ)を分割、ファイサルはフランス軍によりダマスクスを追放されイラク王になったというわけだ。

ところで、そのヒジャーズ王国は現サウジアラビアの首都(     )を中心とするイブン=サウードの(     )王国に併合され、結局アラビア半島の大部分はサウード家がアラビア半島を支配するサウード家によるアラビア、サウジアラビアなった。(    )年のことだ。

18世紀初頭、イブン=アブド=アル=ワッハーブは当時のアラビア半島のムスリムは唯一神信仰を否定し森羅万象を神と同一視する多神教崇拝に陥っていると考えた。そして聖者の廟を破壊し聖木の伐採まで敢行する。そして第一次(      )王国をつくったが、オスマン帝国のエジプト総督(       )に19世紀に潰された。その第3次の(     )王国がサウジアラビア王国だ。

そのサウード家は7世紀の預言者ムハンマドの本流ハーシム家が支配した(      )地方(メッカ・メディナ)は、11世紀以来セルジューク朝、マムルーク朝、オスマン朝とトルコ人に統治された地域なので、いくらムハンマドの直系とはいえ、(     )家はトルコ人の血に汚されていると言いがかりをつけた。

そしてアラビア半島の正統なる支配者はハーシム家でなくサウード家である、と主張。イギリスは石油の利権との兼ね合いから、今度は内陸部のサウード家を支援しサウジアラビア王国が誕生したのである。

1932年にイギリスから完全に独立したイラク王国は、1955年のトルコ=イラク相互条約を基礎に(      )条約が結ばれ、反共軍事同盟、(   )条約機構=(METO)が発足した。加盟国はトルコ・イラク・イラン・パキスタン・イギリスの5ヵ国。

1958年、エジプトとシリアが合邦し(      )ができると、それに対抗するために、ハーシム家のイラク王国はもうひとつのハーシム家の王国ヨルダン=ハシミテ王国(フサインの息子でファイサルの兄アブドゥラーが初代国王となったトランス=ヨルダン王国は1946年に英国委任統治が終了しヨルダン=ハシミテ王国となる)と合邦してアラブ連邦を建国しファイサル2世が盟主におさまったのだが、アラブ連合共和国への脅威からヨルダンの要請でイラク軍をヨルダン国境に向かわせる途上バグダードを近郊に来た(     )将軍がバグダードを占領し(     革命)で国王ファイサル2世は殺害され1958年イラク共和国となった。軍を支配した者が権力を握る、それを“中東”と呼ぶ。

その(    )を殺害し第2代大統領になったのが(    )党の(     )である。バースとはアラビア語で「使命」の意で、反資本主義・反アメリカ・反イスラエルの政党だ。

イラク革命でイラクがMETOから脱退すると1959年には(   )条約機構=(CENTO)が結成されアンカラに本部が置かれた。この同盟は19(  )年のイラン革命で崩壊した。

F.

サファヴィー朝のペルシアは(     )族によって滅亡したが、1736年にナーディル=シャーが首都イスファハーンを奪回して台頭し(     )朝を建設した。1739年にはインドへ侵攻して一時占領し、中央アジアに進出しブハラ=ハン国を服属させ1745年には西から侵攻してきたオスマン帝国を撃破。しかし彼は暗殺され王国は分裂状態、1757年には武将のカリーム=ハンが(   )朝を建国、首都は当初シラーズのちにテヘランに遷都した。

1796年にアフシャール朝の武将でトルコ系のアーガー=ムハンマドがザンド朝を滅ぼし(      )朝を建国した(~1925年、首都       )。同朝はトルクメンという遊牧民族、つまりトルコ系の少数支配という形態をとったので支配は抑圧的だった。

カージャール朝は(18  )年にロシアと(       )条約を結んだ。すでに1813年のグリスターン条約でアゼルバイジャンはロシアに取られていたが、国境紛争が再燃し結局、治外法権を認める不平等条約で決着がつきアルメニアを含むザカフカスがロシア領となった。

1848~52年の(    )教徒の乱はサイイド=アリー­=ムハンマドがマフディーを宣言したシーア派の改革運動で男女平等などを主張したが処刑され終結した。バーブとは12イマーム派の12代イマームへの「門」を意味し救世主的思想が強かった。弾圧を逃れたその(     )教徒の多数派がバハーイー教徒となった。

1891~92年には(      )運動が起きた。第4代(       )がタバコの原料買い付けから販売権までをイギリス商人に与えたことへの全国民的抗議運動が起き、シーア派の宗教界による喫煙禁止令を引き起こした。それはパン=イスラーム主義(反帝国主義)革命家(      )の煽動によるものだった。この民族運動の結果、利権回収には成功したが多額の外国借款を抱え込むことになった。

1905年の日露戦争の日本の勝利とロシアの敗北はイランを覚醒させ、国会開設・憲法制定を要求する(     )革命(~1911)を引き起こした。憲法こそが日本の勝利の要因だと考えた。その間の1906年には国会も召集された。

【日露戦争の日本勝利が影響したアジアへの激動を、あと4つあげよ】

19(  )年の(     )ではイラン北部がロシアの東南部がイギリスの権益となった。1908年には議会派と国王派との内戦になり1911年にはそれに乗じたロシアが議会派の拠点タブリーズに軍事介入した。

【1907年の協約を2つあげよ】

1914年に勃発した第一次世界大戦ではカージャール朝は中立だったものの英露両軍が進駐した。

アフガニスタンはイランのアフシャール朝のナーディル=シャーの死を機にアフガン族が統一した。「アフガン」というのはペルシア語の他称で自称は(       )人でイラン(アーリア)人とセム系の混血だ。アハマッド=シャー=ドゥラッニーが部族連合の長に選出された結果できたのがドゥラッニー朝(1747~1842)で首都は(    )。

カージャール朝は1856年にアフガニスタンの独立を承認した。しかしアフガニスタン国王がロシアに接近する動きを見せるとイギリスは過剰に反応し、1838~1842年まで第1次アフガン戦争、1878~(    )年に第2次アフガン戦争となった。1878年の(     )会議でロシアのエーゲ海(地中海)方面への南下政策が阻止されたので、ロシア(西トルキスタンにウズベク族が建国したヒヴァ・ブハラ・コーカンド3ハン国を(      世)時の1873・68・76年に保護国化)のインド洋への野心が本格化するのを見越してイギリスは1880年アフガニスタン新国王アミール=アブドゥル=ラフマーンを保護下におくことに成功し、親英的緩衝国家とした。ちなみに英領インド帝国の成立は(    )年だ。そして第3次アフガン戦争の結果、1919年のラワルピンディー条約でイギリスはアフガニスタンの独立を承認した。

独立後のアフガニスタンは王国であり1933年以降はザーヒル=シャーが国王として統治した。部族社会ゆえ国王も部族会議ロヤ=ジルガにより推戴されていた。王は従弟のダーウードを首相として起用、しかしその急進的改革に反発が高まり王は首相を解任、しかし1973年にダーウードが革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させた。ダーウードは中立的な外交政策でソ連とアメリカの両方から援助を引き出し、国内の開発を進めようとした。 1978年にダーウードが軍人に暗殺されると、共産主義政党が政権を掌握、そのアフガニスタン人民民主党で派閥抗争が起き、そこに19(  )年、(     )が介入する。 

アフガニスタンは旧帝政ロシア以来ソ連にとって要衝であり、アフガンの不安定化による西側(英米)の介入もしくは喪失は安全保障に多大な影響があると考えられた。

米国の軍事支援の影響もあった。当時の米国政府はパキスタンを経由して非軍事的物資と活動資金をイスラーム戦士集団ムジャーヒディーンに提供していた。そのなかに(       )がいた!しかし冷戦のデタント期ゆえこれら支援は秘密裏に進められていた。同年の(   )革命がソ連に飛び火することを恐れたのもソ連がアフガニスタンに介入した要因である。アフガニスタンにおける過激なイスラーム教徒の活動を抑える目的もあった。

G.

ロシア革命の影響はカージャール朝のイラン北西部に波及し1921年にはホラーサーン地方に革命政権ができた。イギリスはカージャール朝政府を事実上支配していたが、それが民衆の反発の原因となっていた。1921年に成立したコサック(政府)軍の指導者(     )がクーデターで軍事独裁体制が成立した。ロシアの共産党政権と条約を結び、帝政ロシアと結んだトルコマンチャーイ条約以来の不平等条約を撤廃、イギリスも石油の利権と引き換えに新政権を承認した。

こうして1925年、(     )朝(~1979年)が成立した。1941年までレザー=ハーン(レザー=シャー)の独裁体制、トルコの(     )型の世俗路線で統治した。ペルシア語からアラビア語を排除し西欧語の語彙を取りいれるよう努めた。1928年には外国の治外法権を撤廃、1935年には国名を(     )に改名した。第二次世界大戦では中立。1941年には英露が進駐、親ナチとみなされたレザー=シャーは退位、息子のムハンマド=レザー=(     )世が即位した。1943年に(     )会談をチャーチル・F=ローズベルト・スターリンが開いた。石油資源豊富なイランで冷戦の両雄が初めて対峙した。

戦後の1951年、資源ナショナリズムが高揚をうけ(      )政権が(       )石油会社の国有化を宣言すると、1953年にアメリカCIAの工作によりモサデグ政権が転覆し対立していた(      )世が復位する。

同王は1963年に(     )を宣言し脱イスラーム色を鮮明にした。また議会を停止し国王独裁による上からの近代化を試みた。土地革命・婦人解放政策を実施、公娼制度まで復活させる。これら世俗政策に反対する(     )派のイマームのホメイニ師を国外追放にした。ホメイニ師はイラク南部のシーア派の聖地ナジャフに住んだ。ナジャフには初代イマーム、アリーの廟がある。パフレヴィー2世の秘密警察体制に不満を持った首都テヘランのバザールの商人たちがホメイニ師を擁立しパフレヴィー朝を打倒したのが、1978~1979年のイラン=イスラーム革命だ。シーア派の宗教国家イラン=イスラーム共和国の誕生だ。同時に、革命防衛隊がシーア派革命を“輸出”する態勢が整ったことにもなる。イラン革命時にはテヘランの(     )政権下の(      )大使館員が444日間監禁された。それに関与した人物に後のアフマディネジャド大統領もいる。このイラン革命は世界経済に(      )(1979)をもたらした。

【1979年の米カーター大統領の4失点を挙げよ】

このイランのシーア派革命は国内に60%のシーア派をかかえるイラクの(     )大統領つまりスンナ派を支持基盤とする政権にとってははなはだ迷惑な革命だった。イラクの南部はシーア派アラブ人の居住地域。ここには、カルバラーがある。661年に最初のイスラーム王朝の(     )朝ができたが、その後680年にムハンマドの直系の孫でアリーの子であるフサインがウマイヤ家のヤジードに殺された。このフサイン殉死の地が(     )なのだ。

このような状況で、シーア=アリー、つまりアリーとその子孫のみをカリフとみなす党派(アラビア語でシーア)つまりシーア派が形成された。

(     )がある南部イラクのシーア派がイラクの人口の60%。それに対し、サダム=フセインは20%のスンナ派アラブ人の支持を受けているのみ。のこりは北緯36度より北にいる(    )人でスンナ派。その双方と対立関係にあったのがサダム=フセイン政権だった。

ゆえにイラクのシーア派にとって、イラン革命とイラン=イスラーム共和国の誕生は強力なサポーターの出現を意味する。というわけで、スンナ派を支持母体とし、かつ本来は世俗的なサダム=フセイン・バース党政権にとってイランのイスラーム革命は、非常に迷惑な革命だったのだ。

また王家を打倒する革命の“輸出”また波及はサウード家のサウジアラビア、サバハ家のクウェートにとっては断固防がねばならないものだ。言うまでもなく革命政権により在イランの利権を接収されてしまったアメリカにとってはイランの革命政権は仇敵である。

これら3国の資金と武器の支援を背景はイラクがイランに攻め込んだ。こうして(     )戦争(1980年~1988年)が始まった。その間、アメリカの中東特使ラムズフェルドとサダム=フセインが握手してアメリカの“フランケンシュタイン2号”としたが、後にラムズフェルドは国防長官として2003年のイラク戦争でサダム=フセインを葬り去る。

イラン=イスラーム革命時にテヘランの大使館員を人質にされたカーター政権の次の(     )大統領は、テヘランの人質解放と交換条件に武器を売却した。イラクだけでなくイランにも武器を売る。こうしてイラン=イラク戦争はアメリカ製武器の在庫処分の場となった。さらにレーガンは売却代金を中米(     )の(      )社会主義政権に抗するゲリラ組織(    )の活動資金とした。この戦争時にイランはジハード(本来は“努力”“奮闘”の意)で死ねば天国行きが約束されると年端のいかぬ少年兵に地雷原を歩かせ自爆死させ、“探知機”の役を担わせた。

H.
 イラン=イラク戦争終了時に(     )が融資資金の返済を迫ったので、サダム=フセインは同国に侵攻した。サダム=フセインが狙ったのは実は同国の石油だった。で、国境付近の石油盗掘問題という“言いがかり”をつけた。同国はもともとイラクの一部だった。で、その前は19世紀にイギリスが保護国化した。

これが1990年の湾岸危機だ。(     )大統領(父)は(     )を結成し、19(    )年の湾岸戦争で同国から撤退させた。「ミュンヘンの宥和」の失敗の二の轍を踏まないためである。

【ミュンヘンの宥和の失敗とは何か?】

サダム=フセインの不満はイスラエルが第3・4次中東戦争後の国連決議(242・338号)を無視しゴラン高原・ガザ地区・ヨルダン川西岸地区を占領し続け“おとがめ”なしであることだ。だから1990~1991年にかけてイラクにクウェートからの撤退を求める国連決議が10本でる間にスカッドミサイルをイェルサレムやテルアビブに打ち込んで、自身のクウェート侵攻をパレスチナ問題とリンケージ(連関)させた。湾岸戦争で(     )軍が使用した劣化ウラン弾は現在でもイラク人に白血病やガンを引き起こしている。 

I.           

湾岸戦争後もフセイン対策としてサウジアラビア政府の要請に応じ米軍がアラビア半島に駐留したことは、メッカ・メディナの聖地にたいする侮辱だという憤りを誘発することになる。これがイスラーム原理主義者ウサーマ=ビン=ラディンが首領であるテロ組織アル=カーイダの活動(最も顕著なのが(    )年・9.11テロ)を促すことになるが、彼は2011年にパキスタンに潜伏中に(     )大統領のアメリカ殺害にされた。ただその後も、アメリカ軍はサウジアラビア政府の要請で、アラビア半島に駐留した。なぜなら、アメリカ軍が撤退するとサダム=フセインがまた南下する可能性があるからだ。豊富な油田地帯を抑えられたら、石油の価格をフセインに決められてしまう。米国による世界平定(パクス=アメリカーナ)にとってフセインは障害であった。

この時期サウジアラビアでは、当時のサウジアラビア政府がアメリカ軍の入国とその後の外国軍の駐留を許す政府にたいし批判が高まった。また(     )=イスラーム法の代わりに西欧起源の世俗実定法の施行し、かつ非ワッハーブ派のイスラーム諸国との友好関係を築くことは、多神崇拝であると同時に不信仰なおこないであるという懸念が国内に生じていた。

初期イスラーム史において最初の王朝がウマイヤ朝(スンナ派、661~750)、次がアッバース朝(スンナ派、750~1258)。このバグダードの王朝の中期に、現エジプトの(     )にファーティマ朝(     派)のカリフ、現スペインの(     )に後ウマイヤ朝(     派)のカリフと三人のカリフが鼎立するようになり、イスラーム共同体(ウンマ)の一体性はなくなった。

13世紀にアッバース朝が(      )人に滅ぼされ、ついで(     )人がイスラーム史の主役になり、最終的に第一次世界大戦の敗戦に起因する革命でオスマン帝国が滅んでトルコ共和国が(     )年に建国されると、その初代大統領は翌年(    )制を廃止して、アラビア文字を(     )文字に変える、徹底的な脱イスラームの世俗主義を施行。カリフが地球上からいなくなった。この状況へのイスラーム知識人の自己反省の鬼っ子が、アルカーイダでありISなのである。ウサーマは、当時のサウジアラビアの国防大臣に会ってアメリカ兵の振る舞いの“改善”を願い出るがかなわない。

とうとう2001年の9月11日にニューヨークをワシントンの国防総省とともに攻撃。ウサーマ=ビン=ラディンを首謀者とする(     )の犯行ということになっているが、実行犯がサウジアラビアや湾岸諸国の富裕な人間たちで占められていたことからわかるように、もし実行犯が彼らだったとするならば、貧困がテロの原因ではなくイスラーム政治学の一つの手法であったと考えるべきある。

そもそもサウジアラビアのイスラーム原理主義者はサウジアラビアの王室そのものに嫌悪感を持っている。だから、イスラーム原理主義者がイスラームの聖地メッカやメディナでテロを起こすのだ。

なぜイスラーム教徒がイスラームの聖地でテロを起こすのか。

なぜなら本来、7世紀のムハンマドの後継者を意味する「カリフ」の選出は「合議制」であったのに、サウジアラビア王国は(     )家だけで権力が「世襲」されているからだ。スンナ派の「スンナ」とは「言行」という意味だが、その肝は「合議制」であるべき、ということなのだ。

J.

ニューヨーク同時多発テロの五日後の9月16日、米国ブッシュ大統領はアフガニスタンに対する戦争を十字軍に喩え、掃討作戦名を「無限の正義(Infinite Justice)と名付けた。当時のアフガニスタンがウサーマのスポンサーだった(      )政権だったからである。しかし、本来「正義」というものはキリスト教においてもイスラーム教においても神にのみあるだから傲慢であると非難され、作戦名を「不朽の自由」(Enduring Freedom)に変更した。そしてターリバン政権を打倒、2002年に部族長会議ロヤ=ジルガが開かれカルザイが議長となったが、アヘンの原料であるケシの栽培からの資金を武器にターリバンが勢力を増している。パキスタンでは女性の教育権を訴えた少女(       )(後にノーベル平和賞受賞)が銃撃された。

2001年9月11日の同時多発テロの後、ブッシュ大統領(子)は(   ・     ・    )を「悪の枢軸」と呼んだ。

【バイデンのいう“新悪の枢軸”を4国あげよ】

予防的先制という理屈を駆使し2003年イラク戦争に踏み切り(     )を捕らえ新生イラク政府に引き渡す。イラクが民主化したので多数決の世界になり、(    )派政権により彼は処刑された。

イラク戦争の2003年はブッシュにとっては2度目の選挙の年。選挙の結果を左右するユダヤ人票が欲しいブッシュは、次のような状況をも見逃さなかった可能性もある。サダム=フセイン大統領は反イスラエルの(    )党のトップだった。首都バグダードに自分と(      )世のツーショットの壁画を飾った男だ。彼は、カルデア人の新バビロニア王国の王で紀元前6世紀「(      )」をおこなった人物だ。ということは、エルサレムを攻撃する意思がある、というフセインのメッセージにもとれる。

だからサダム=フセインを葬り去れば、21世紀版バビロン捕囚の脅威を除去できる。そうすれば、中東のユダヤ人国家イスラエルの安全を保障でき、結果として、アメリカ国内のユダヤ人票を確保し、大統領に再選される、という構図が成り立つ。そして事実、再選されたのだ。

k.

というわけで2003年、サダム=フセイン政権はアメリカとのイラク戦争に敗れた。バース党政権に終止符がうたれサダム=フセインは拘束された。2004年に暫定政権に主権が移譲され2006年に(     )派のマーリキー政権誕生後サダム=フセインの死刑が執行された。

イラクがシーア派になりイランの影響力が増すと、イラクのスンナ派が警戒感を強めアルカーイダ系のテロが頻発。そんななか(     )政権のアメリカ軍が2011年末に撤退する。同年ウサーマ=ビン=ラディンはパキスタンでアメリカの特殊部隊により殺害され、エジプト人で(    )ついでジハード団で活動したアイマン=ザワーヒリーがISの後継首領となった。

さかのぼって2007年6月下旬、イスラーム国(Islamic State略してIS)が新国家建設を一方的に宣言した。イスラーム国(以下、IS)はアブーバクル=アル=バグダーディーを最高指導者とし、旧イラク軍元将校や政治・行政経験のあるイラク人を構成員とする。ISは2003年のイラク戦争で崩壊したサダム=フセイン政権時代の元将校や元政治家が中核を担う統治機構だ。

ISは(     )=(イスラーム法)を厳格に運用し戒律は厳しい。拘束したヤズィーディー教徒と奴隷とし女性をイスラーム国の戦闘員に分配した背景には、そもそもイスラーム社会にはジハード(聖戦)と戦争捕虜にたいする規定がある。サウジアラビアの新聞に載せられた記事によると、シーア派が過半数を占めるイラクやシーア派の大国イランの弱体化を狙うサウジアラビア王族が資金を提供した可能性が大きいようだ。鍵は対「シーア派ベルト」。これまで述べてきたようにイランはもともと(    )派、イラクはイラク戦争の結果シーア派、シリアの(    )政権はアラウィー(アリーに従う者)派つまりシーア派系、レバノン南部にはイランが支援するシーア派の(    )。ここにアンチ・シーア派の「イスラーム国」を建設し楔を打ち込むのがスンニ派の大国サウジアラビアのもくろみだ。

L.

「アラブの春」とは、2011年の(     )のベンアリ政権打倒からはじまった運動だ。これが同じ北アフリカに波及し、エジプトの(     )政権やリビアの(     )政権などの長期独裁体制に対する若者たちの街頭デモに発展し、それらの政権が打倒された。これはアメリカの共和党ブッシュ子政権時の2003年のジョージア(旧グルジア)の(    )革命や2004年のウクライナの(      )革命に続く、次の民主党(     )大統領による中東親米化政策の一環であった。

エジプトは民主化し、多数決でイスラーム急進派(     )系の政権が誕生。シリアにも波及し、イスラーム教シーア派の一派とされるアラウィ派主導のバッシャール=(    )政権に対する反政府運動から「シリア内戦」となった。1割のアラウィー派が7割のスンナ派を抑えているのが(     )大統領であったが、アラウィー派がシーア派系なので、シリア内戦において、ロシアはこの“シーア派枢軸”の側に立っていることがより鮮明になったのだ。ロシアがシリア内戦に関与するのはロシアが唯一地中海に有するタルトゥース港にロシアの海軍基地があるからだ。ロシアの空爆に参加している反政府武装勢力「自由シリア軍」の拠点が北部のアレッポだが、その他にシリアには(イラクとシリアでは壊滅しつつある)IS(イスラーム国)とそれと対立するアルカーイダ系のヌスラ戦線もいうジハーディスト同士に対立もあるので、クルド人勢力も含めシリア内戦は「五つ巴戦」なのである。ヌスラ戦線の指導者のジャウラニが(    )年12月にアサド政権を崩壊させ「シリア解放機構」を創設した。シリア内戦で世界遺産の隊商都市(     )【このあたりに後漢王朝の西域都護(    )の部下(     )が来たとされる】の重要な建造物がISにより破壊され博物館の館長が殺害された。

2020年、イスラエルが(     )との間で外交合意した。これが(      合意)だ。その後、(     )(      )(      )とも合意した。それも含まれる。イスラエルとアラブの共通の敵は(     )である。だが、2023年、(     )政権の中華人民共和国の仲介で、中東の大国(    )と(     )が国交正常化したのだから中東現代史は複雑怪奇現象と言わざるを得ない。

村山からのメッセージ

「歴史はうそをつかない」

これは大国に翻弄されたエストニアでよく知られた格言ですが、同様の格言は世界各地にあります。

過去を変えることはできません。とはいえ、現代人が過去と対話し過去から学ぶことは可能です。

古代イスラエルの賢王ソロモンは述べています。
「わたしはこの世で行われている事柄について考えた。世には権力を執る者がいればその下で苦しむ者もいる」

ジャンクフードのような情報に翻弄されないで、この世で行われていること、権力とその結果を複眼で見つめ考えるために歴史感覚を養いたいものです。

当塾では、受講生各自が今後自分の関心がある世界史関連の書物を読んでいけるように、高校世界史の全範囲を網羅します。入試世界史の対策講座です。これまでの世界史の大学入試で出題されてきた分野の解説と演習をいたします。

世界史に限らず高校生の学習分野を決して侮ることはできません。大人の教養は高校レベルの理解があってこそ深まるものです。旅する幸せが目的地よりそのプロセスにあるように、人類がたどってきた歩みについての真の知識が増すことは日々の私たちの満足感につながります。

高品質の世界史力を身につけたい受験生、大学生、社会人を指導いたします。

村山秀太郎

講師プロフィール

講師プロフィール

講師プロフィール

1963年横浜生まれ。16歳単身欧州8ヵ国を旅行、19歳サハラ砂漠を縦断。その後「ベルリンの壁」崩壊、統一ドイツ式典、ソ連崩壊時のモスクワ-クーデターを現地体験。早稲田大学卒業、同大学院修了。社会思想史専攻。29歳から予備校&高校にて世界史を講義し、現在リクルート-スタディサプリ講師。聖書を愛読、アラビア語&スペイン語と格闘しつつ、これまで世界史の舞台百余国を旅してきた。世界旅の情報量は世界史の知識量と甲乙つけ難い。

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